日本語仙人の難しい日本語

漢字の読み書き、常套句、ことわざや格言、間違えやすい言葉―。中・上級レベルの日本語を紹介。

【百人一首】六歌仙とその和歌

 六歌仙(ろっかせん)とは、『古今和歌集』編纂者の紀貫之(きのつらゆき)が、仮名序(仮名で書かれた序文だから”仮名序”)にて優れた詠み手として挙げた6人のことを指します。

もっとも、六歌仙と呼ばれるようになったのは後代のことなので、”六歌仙歌詠みの会”などといった特別な交流があったわけではありません。

また、僧侶や女性も含まれていたりと、詠み手の生い立ちや身の上にさほどの共通性はなく、歌風も様々であることが特徴です。

  六歌仙が詠んだ和歌は、多くの日本人になじみの深い百人一首(※)にも5首収められています。※もっとも一般的な、藤原定家が撰んだ『小倉百人一首』。

 

今回は、一度は見聞きしたことがあるであろうそれらを再度吟味していきましょう。

 

在原業平(ありわらのなりひら)

ちはやふる神代もきかず竜田川唐紅に水くくるとは(17番)

訳:人間世界では当然のこと、神々の時代にもこんな光景があったとは聞いたことが無い。竜田川が水を紅色に絞り染めしているなんて。

 

 紀貫之の六歌仙のほか、藤原公任の撰んだ三十六歌仙にも名を連ねる優れた歌人。伊勢物語の主人公のモデルだともいわれている。早い話がイケメンだったということ。

辛口の仮名序では、「その心余りて言葉足らず。しぼめる花の色なくて匂い残れるが如し。」と評されている。感情が溢れすぎていて、言葉がそれに追いついていない歌が多いということ。

 

二句切れ、加えて語意を高める枕詞の「ちはやふる」を用いた大層な感嘆表現が特徴の歌です。実はこれ、屏風に描かれた絵を見て詠んだ、「屏風歌(びょうぶうた)」です。

歌人としては、忖度して屏風絵の出来栄えを殊更に褒めるのが礼儀。この感嘆が本心かどうだったかはわかりません。しかも依頼主は、かつて恋仲だった二条の后だったといわれています。歌中に反映されてはいませんが、表に出せぬ本当の思いは心の片隅でざわめいていたかもしれません。

 

僧正遍昭(そうじょうへんじょう)

天つ風雲の通い路吹き閉ぢよ乙女の姿しばしとどめむ(12番)

訳:吹き抜ける風よ、雲の通り道を閉ざしておくれ。乙女の舞い姿を、ほんのしばらくでもこの地にとどめておきたいのだ。

 

 遍昭も業平と同様に三十六歌仙のうちの一人。桓武天皇の孫にあたる高貴な生まれであり、それでいて美男子だったとか。

35歳の時に出家をし、それからも「僧正」という高い官職に上りつめたという立派な経歴の持ち主。生没年もはっきりしており(816~890)、当時としてはかなりの長寿。

仮名序では、「歌のさまは得たれども、まこと少なし。絵に描ける女を見て、いたづらに心を動かすが如し。」と評されている。歌の内容は整っていて綺麗だが、現実味に欠ける歌が多いとのこと。

 

言葉群や声調の質感が華麗で、カルタに縁遠い人でも聞き覚えがあろうかというこの一首。歌意も直截簡明で、百首の中でこれをはじめのほうに覚えたという方は多かろう。

かつて私もこの歌を聴き、”乙女の姿”とはどのようなものだったのだろうと少年心に妄想をたくましくしていたのですが、読み札に坊主の絵が描かれていたのを見て大きなショックを受けた覚えがあります。

ときめきを返せ。

 

ちなみに、百人一首21番の素性法師は遍昭の弟。

 

文屋康秀(ふんやのやすひで)

吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐というなむ(22番)

訳:吹けばたちまちに秋の草木が萎れるので、山から吹く風を嵐(荒らし)と呼ぶのはもっともなことだなあ。

 

 後述の小野小町と親しく、和歌を送り合ったというエピソードがある。他の歌人と比べて身分は低かったものの、技巧に富んだ言葉遣いが認められ、歌人としての評価は高い。

仮名序では、「言葉はたくみにて、そのさま身に負はず。いはば、商人のよき衣きたらむが如し。」と評されている。言葉の使い方は上手いが歌の内容が薄く釣り合いがとれていないということだそう。(貫之くん辛口すぎないか。)

 

この歌は情景描写がなく、登場人物も出てきません。つまりストーリー性が無いということです。要となるのは、「山」+「風」=「嵐」、草木を荒らすから「あらし」だという言葉遊び。和歌の常識を覆す常識破りの…、とまでは言わないまでも、異色の一首と言えるでしょう。

ただ、珠玉の百首のうちの一つとして選ばれているのにはやはり理由があります。毎年台風が通過し自然災害の恐ろしさをいやほど知る日本においては、誰しもが共感しうる内容であるということです。

 

喜撰法師(きせんほうし)

わが庵は都の巽しかぞすむ世をうぢ山と人はいうなり(8番)

訳:私の庵は都から南東の宇治山にあり、そこで平穏に過ごしているのだが、そんな私を人々は世を憂いて山中に篭ったのだと噂しているようだ。

確実に本人作の和歌だと言われているのはこの一首だけ。仮名序でも、「言葉かすかにして、はじめ終わり確かならず。いはば秋の月を見るに暁の雲にあへるが如し。」と紀貫之から評されている。言葉がはっきりせず歌の主題があやふやだということ。

その実、宇治山の僧であったこと以外の経歴は不明の謎の多き人物。

 

一発屋といわれればそれまでかもしれないですが、只この一首だけで後世に幾度も語り継がれることとなりました。それだけ強烈なインパクトを持つ歌です。

まず、”世をうぢ山”の部分ですが、「世を憂」と「宇治山」という言葉が掛けられていて、この部分だけで「世間を憂いて、そこから逃れる為に宇治山に引き籠る」という意味になります。

そして、人は(そのように)言うなり。(だが、)わが庵は(そうではない)。という様に、自分と他者との考えをきっぱりと分ける対立構造になっています。対立…とはいえ、始まりの三句で先に自分の状況・境遇を説明していることによって、決して喧嘩腰ではなく、むしろ自虐風に読み取れるということもポイント。

さらに、「しかぞすむ」とありますが、ここも、「然ぞ住む(このように住んでいる)」と「鹿ぞ棲む(シカが棲むほど人里離れた地)」の掛詞になっています。

面白いのが、”都の巽(=辰巳)しか(=鹿)ぞすむ”と、辰と巳の後は馬(午)が来る筈なのに、そこに鹿をわざわざ持ってきたという解釈もできるということ。

浮かび上がるのはそう、「馬鹿」という文字。

 

虚仮にしやがって…。

そう思うかもしれませんが、飽くまでこれが含まれるのは自分の状況・境遇を説明している始まりの三句。「私はバカですから」と自虐的表現をしたまでだという言い訳の余地まで残されているのです。

 

小野小町(おののこまち)

花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに(9番)

訳:桜の花は色褪せてしまった。むなしく長雨が降りしきる間に。私の容色も衰えてしまった。色恋沙汰にあくせくしている間に。

三十六歌仙のうちの一人でもあり、言わずと知れた日本史上屈指の美人。紅一点。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。酔いつぶれれば「玉山崩る」。寝てよし、座ってよし、立ってよし、動いてよし、歌ってよしの完全無欠超人。これといった欠点も見つからず挙句には”穴の無い女”とまで揶揄される。

仮名序では、「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるようにて強からず。いはばよき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは女の歌なればなるべし。」とある。情趣があるが弱々しく、病弱な美女のような歌が多いという評価。

衣通姫(そとおりひめ)とは、美貌と和歌の才能を持ち合わせた女性。古事記や日本書紀などで伝承されている。

 

隠喩・掛詞・倒置法を習うための雛形として、この歌を深く理解することは大変に重要なことだと思います。

この一首が超大作であるという点はいくつもあります。

まず、綺麗に二句切れになっており、前半では桜を主題とした歌なのかなと思わせつつ、”花の色”とは女性の容色の美しさのたとえだったことを後の三句で種明かしするという倒置法的手法を用いた隠喩であるという点。

そして、”世にふるながめせしまに”の部分ですが、”世”は「世の中」「男女の仲」、”ふる”は「降る」「歳月を経る」、”ながめ”は「長雨」「眺め(物思いに耽ること)」とそれぞれ掛詞になっており、二句にわたって三か所の掛詞を用いる掛詞の二世帯三層構造(←!?)になっているという点。

また、”いたづらに”という語が、倒置法でひっくりかえされた「移りにけりな」は勿論のこと、「わが身世にふる」「ながめせしまに」にも係っており、この歌のあらゆる橋渡し役になっているという緻密さにも息を吞んでしまいます。

小町の歌には「夢」という語がよく使われます。「現実」に対しての「夢」です。日本では「世界三大美人」とかなんとかにノミネートされてますが、詠む歌は暗いトーンのものが目立ちます。

美人ゆえの悩みも長年抱え続けたであろう。ただ、和歌を詠むことで心の屈折を昇華し、押しも押されもせぬ歌人として多くの作品を残してきたのだと思います。

 

うたた寝に恋しき人をみてしより夢てふ物はたのみそめてき『古今和歌集』

(うたた寝で見た夢で恋しい人と会って以来、夢というものを頼るようになってしまった。)

 

大友黒主(おおとものくろぬし)

百人一首に六歌仙の和歌は5首...ということは、撰外になってしまった人がひとりいます。それがこの人。

せっかくなので、代表的な一首をこの場で紹介させていただきます。

春雨のふるは涙か桜花ちるを惜しまぬ人しなければ『古今和歌集』

(春の雨は人の涙ではなかろうか。桜の花が散るのを惜しまぬ人などいないのだから。)

仮名序での辛口批評では、そのさまいやし。いはば、薪負える山びとの、花の陰に休めるが如し。と、”田舎っぺ”扱い(「いやし」=「賤し」、貧しいこと。)をされていますが、自然の抒情を美しく詠むのに長けた歌人です。

もとは天智天皇の息子にあたる弘文天皇に仕えた大友一族の一人ですが、弘文天皇が後継者争いに敗れてからは不遇な扱いを受けることになりました。

さらに、能や歌舞伎では彼を悪役として描いている作品が現代に残っています。

かてて加えて六歌仙で唯一の小倉百人一首撰外。(藤原定家おい!)

 

…聞くに堪えない気の毒な身の上だと思えてしまいます。

ただ、喜んで(?)ヒール役を買って出ること、そして、官職についていたのに「そのさまいやし」と言われるまでに庶民派の感性をも持ち併せていたことなどから、おおらかで度量の大きい人物像が見えてくるような気がします。「拾遺和歌集」や「後撰和歌集」に残る多くの彼の歌も、人々の共感を呼ぶ温かいものばかりに感じられます。

 

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以上、六歌仙とその和歌(百人一首)でした。

カルタ遊びや坊主めくりなど、なにかしらで百人一首に触れた経験は誰しもあるのではないでしょうか。今一度詠み返し、その歌の深い意味や作者について調べてみると、きっと新しい発見がありますよ。

 

それでは、さようなら。