花見のシーズンになりました。
花見とは、桜の花を観賞することなのですが、春の訪れを祝う風習として古くから日本で行われてきました。
「酒なくて何の己が桜かな」
訳:酒が無ければ花見の何が楽しいのだ
桜の花を見ながら飲む酒は風流だと言われていますが、「桜の花の鑑賞」「春の訪れを祝う」という本来の目的を離れ、恒例のお祭りイベントと託(かこつ)けて、単にバカ騒ぎをしたいだけという人も少なからずおられます(花より団子)。
木の下で多人数で宴会をする光景は、特に海外の人からは奇抜にみられると思うのですが、花見が目的で来日される観光客が増えており、アジア諸国にも広まっていっているそうです。
開花から短い期間で散っていく花びらは、人の命のはかなさに例えられることがしばしばあります。
ただ、短くはかないからこそ、有難いものだと思えるのです。
今回は、出会いと別れの象徴「桜」が登場する和歌を、6つ紹介したいと思います。
1.久方の 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)無く 花の散るらむ
『古今和歌集』 作者:紀友則
訳:のどかな光が差すこの春の日に、どうして桜の花は落ち着きもせず散ってしまうのだろう
春が訪れ、やっと咲いたかと思えば、慌ただしく散っていく桜の花。もの悲しさを詠ったまさにこれという一首。
百人一首の34番に収録されています。
和歌で「花」と出てきた場合、多くは桜の花(たまに梅の花)のことを指します。
2.世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
『伊勢物語』 作者:在原業平
訳:この世に桜というものが無かったならば、(花が散るのを惜しんだりすることもなく)春は落ち着いていられるだろうに
「会う(逢う)は別れの始め」「愛別離苦」「合わせ物は離れ物」。
素敵なものを見つけることはつまり、素敵なものとさよならをすること。
出会いと別れを率直に詠んだ一首。単純なようで、深い。
3.いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に にほひぬるかな
訳:遠い昔に奈良で咲いていた八重桜は、今日も九重で美しく咲き誇っています。
『詞花集』 作者:伊勢大輔(いせのたいふ)
テンポがよく、「いにしへ」と「今日」の対比が美しい整然とした一首。
「大輔」とありますが、これは名前ではなく役職名。女性。
百人一首61番の歌。
4.あしひきの 山桜花 日並べて かく咲きたらば いと恋ひめやも
訳:山の桜が何日も咲いていたら、こんなに恋しいと思わないだろうに。
『万葉集』 作者:山部赤人(やまべのあかひと)
どれだけ桜の花が綺麗だとはいえ、年中咲いているならば、花見という風習は間違いなく無かったでしょう。いくら良いものであっても、何日も続いては食傷(しょくしょう)してしまいます。
咲いてから十日余り。名残惜しいくらいが、ちょうどいいのかもしれません。
「2」への返歌だと言われてもおかしくない一首ですが、山部赤人は在原業平よりもっと昔の時代を生きた歌人です。
5.花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける
訳:人を大勢惹きつけてしまうのが、惜しくも桜の罪であるなあ。
作者:西行法師
花見の風習が今でもなお残り、海外にまで影響を与えているのはたいへんに喜ばしいことなのですが、木の枝をへし折ったり、酒に酔った勢いで暴れまわったり、ごみを放置したまま帰るなどの非マナー行為をする人が絶えません。これは昔も変わらなかったようです。
騒がしくなればなるほど、風流もへったくれもなくなってしまいます。殊に歌人としては大きな悩みの種であったに違いないでしょう。
6.願はくは 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)の頃
訳:願うなら、春に桜の下で死のう。二月(陰暦)の満月の頃がいい。
作者:西行法師
最後の6番目を締めるのは「5」の作者と同じこの人。
桜を愛し、多くの歌を残した僧侶。
陰暦二月(如月)は、現在でいう三月の後半にあたり、ちょうど桜が満開になる頃です。
西行法師はこの歌を残した後、実際に如月の望月の頃(=1190年二月十六日[満月])に亡くなっています。
以上、「桜」が登場する和歌6選でした。
「たかが花、たかが木、たかが植物」と言いいきれない何かがあるのは確かです。
「世の中にたえて桜の…」とありますが、桜の花が散る様子を惜しみながら見届けるのもまた一興。一瞥(いちべつ)を投げるだけでも結構。
「桜はときに人を狂わせる」と言われています。
桜の花粉には興奮を誘発する「エフェドリン」という物質が含まれているようですが、果たして本当にそれだけでしょうか。
今週のお題「桜」でした。
それでは、さようなら。