「故人」といえば、亡くなった人のことをいいますが、「古くからの友人」という意味もあります。故郷、縁故などの”故”です。
李白の代表的な詩『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』では、故人西の方黄鶴楼を辞し…(古くからの友人が西の黄鶴楼を去り…)という一節から始まります。学校の漢文の授業でやったのを覚えている方もおられるかもしれません。
今では専ら「亡くなった人」のことで使われていますが、同じ表記でも文脈によって意味が変わるというのは、なかなかに頭を悩ます因子の1つです。
ここで、「ややこしいな」と思うか、「面白いな」と思えるかが、国語嫌い・国語好きの分かれ目になるのでしょうか。
今回は幼なじみを表す言葉を紹介。
竹馬之友(ちくばのとも)
幼い時分に共に竹馬で遊んだ仲。
出典は『晋書』。お互いに政治的なライバル関係にあった「桓温(かんおん)」と「殷浩(いんこう)」のエピソードが由来。
桓温は、「幼き頃、私が乗り捨てた竹馬を殷浩が後から使っていた。だから私の方が偉い!」というクソしょうもない主張をしたという故事から。
元々は、”幼いころからライバル関係にあった友人”という意味で使われていたのでしょうか。
騎竹の交わり(きちくのまじわり)
子どものころから親交がある友。
前項の「竹馬之友」の言い換え。
竹馬に乗って遊ぶとなれば、近所の公園で素足になって走り回るくらいの年齢と考えられます。
おそらく十歳にも満たないくらい。そのころから親交がある友人のことを指します。
今でもなお幼稚園では、園児が竹馬に乗って遊ぶという文化は残っているそうです。
足の親指と人差し指の間にマメをつくりながらも、必死に何度も何度も日が暮れるまで乗って遊んだという記憶は、かけがえのないものとして私の中でも生き続けています。
知己(ちき)
自分のことをよく知っており、理解してくれる友人。
己(おのれ)を知(し)るという、なんてことはないそのままの意味。ただ読み方に注意。
必ずしも、”幼なじみ”という意味を持つ言葉であるかというとそうではないのですが、ここは少しお許し願いたい。
というのも、「私の~年来の知己」などといった使い方をされることが多いから。
いや、そもそも日常において使われることなんて滅多にない言葉ではありますが…。
出番があるとしたら、結婚式の友人代表スピーチなどでしょうか。私はとても幼い大昔から彼(彼女)を知っていますよということを話に盛り込むことによって、多少のエッセンスは加わるでしょう。
筒井筒(つついづつ)
(異性の)幼なじみ。
”筒井筒井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見るざまに”
(井戸の囲いと測り比べた私の背丈も、あなたを見ない間にすっかり高くなってしまったようだ)
筒井筒(つついづつ)という響きに聞き覚えがある方は、上の一文が思い浮かんだことと思います。
ここでの「妹(いも)」は、兄弟姉妹関係の「いもうと」ではなく、「愛しきあなた」という意味。
ちなみに女性目線で男性を言う場合は「背(せ)」という言葉が使われます。
上記に対する返歌は、
”比べ来し振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰が上ぐべき”
(あなたと長さを比べ合った私の振り分け髪も、肩を過ぎてしまいました。あなたでなくて誰がこの髪を結いあげるでしょうか)
出典は『伊勢物語』。
伊勢物語は、互いに惹かれ合っていた幼なじみの男女がやがて望み通りの結婚をするという内容のお話。
素敵ですね、是非覚えて頂きたいです。
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以上、「幼なじみを表す言葉」でした。
さようなら~。