「夢を持ち歩み続けなさい」みたいな偉人の名言には食傷してしまって全く心に響かなくなりました。
この言葉は、希望、大志、憧れのような前向きな言葉と並列で語られる一方、絵空事、空想、単なる欲求などと同義と捉えられることも多いです。
実は”夢”という字は、草の象形、人の目の象形、月の象形から成り立っている漢字で、「暗い」「はっきりしない」というのが原義と言われています。人の夢と書いて儚(はかな)いとあります。つまるところ得体のしれないものなのでしょう。こちら(儚)の意味は幾分か好きですけどね。
さて、今回は故事からの出題。夢といっても、眠っているときに見るほうの夢でございます。
華胥之夢(かしょのゆめ)
吉夢のこと。
華胥とは中国の伝説上の国。この国の人民は誰もが無欲恬淡と自然のままに暮らし、まさに理想郷と呼ぶべき場所だったようです。
中国の初代皇帝と云われる黄帝が夢でこの国に訪れ、自分の政治の規範にしたといいます。
「華胥の国に遊ぶ」・・(心地の良い)昼寝をする
巫山之夢(ふざんのゆめ)
男女の親密な交際のこと。
巫山とは中国の湖南省にある山のことです。戦国時代、楚の国の壊王(かいおう)が高唐で昼寝をしていところ、巫山の神女と契りを交わす夢を見ました。夢の終盤、その神女が暇乞いをしていうところによると、巫山の南、高丘の阻に住んでいるというのです。「朝には雲、暮れには雨となり、朝な夕なあなたのそばにいますから」と。
翌日壊王が巫山を望むと、果たして朝雲がかかっていたといいます。そこで壊王は神女のことを思い、朝雲廟というものを建てたそうです。
朝雲暮雨(ちょううんぼう)、雲雨の交わりなどとも。
邯鄲之夢(かんたんのゆめ)
人生ははかないことのたとえ。
出世のために邯鄲へ上った盧生(ろせい)は、立ち寄った宿で道士の呂翁(りょおう)と会い、その呂翁が携えていた枕を借りて眠ったところ、栄耀栄華(えいようえいが)を極めた後にやがて凋落(ちょうらく)するという栄枯盛衰の一生を夢で見たといいます。ところがその夢が覚めた頃には、注文した高粱の粥がまだ炊き上がらない僅かな時間しか経っていなかったそうです。
高粱(こうりょう)とは、中国北部で栽培されるモロコシの一種。コーリャンと呼ばれる。
盧生(ろせい)之夢、邯鄲之枕、一炊(いっすい)之夢とも。
胡蝶之夢(こちょうのゆめ)
上記三つの夢は初見だという方も、この言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。
人為を厭(いと)い、無為自然を愛した道教の始祖荘子の根本思想を象徴しているというべき言葉。蝶になった夢を見ていた荘子は、目覚めた時に蝶が自分になった夢を見ているかと疑ったという。”胡蝶”は蝶の別称。
どちらにせよ、起こるがままを肯定せよと言ったのが荘子の言い分。どっちが正解なのかは問題ではないそうだ。
胡蝶之夢の百年目・・・死期が迫ったとき、自分の人生を振り返り夢であったかのように思うこと。
「××の夢」シリーズはほかにもいくつかあります。
気になった方はいろいろと調べてみると面白いと思います。
それではまた。
さようなら。