どうもこんばんは。
最近かなり冷え込んでいますね。毎朝の起床が億劫で、暖かい季節が恋しくなります。ただ、日付では冬の折り返し地点は過ぎました。冬来りなば、春遠からじです。
今日は故事成語からのピックアップです。
糟糠(そうこう)の妻とは、貧しい時分からともに連れ添ってきた妻のことをいいます。糟とは米、糠はぬかのことを指し、いずれも粗末な食事の代名詞です。
「(糟糠の妻は)堂より下さず」と続き、([貧乏暮らしを共に経験してきた妻とは]立身出世の後も離縁するわけにはいけない)という意味になります。
出典は漢の政治家宋弘(そうこう)による伝記から。
そういえば、「糟糠の妻」というタイトルの韓国ドラマが流行しました。
夫の浮気被害に遭っている女性たちが一堂に会し、「糟糠の妻クラブ」なるものを作り、そこで各々夫への報復を企てるみたいなあらすじだったと思います。
…ただ、あくまで男性目線で妻を評価した言葉であって、女性が自称するものではありません。いかにも平日の昼間に放送されてそうなドラマって感じです。
一昔前に「ゲス不倫」が話題になりました。
被害者である元妻女性の悲惨な実態に同情の言葉が飛び交いましたが、「ゲスの極み乙女。」が売れる前まで支えてくれていたいわゆる「糟糠の妻」だったという見方ができたからでしょう。
男側の川谷絵音さんは、曲が売れて金を持ったがために心が浮ついたのか、他の女に手を出してしまいました。そして結果的に惚れたその相手は、上っ面が良いだけの狡猾な女でした。世間からの非難の的となり、今更元妻と撚(よ)りを戻すのももはや不可能でしょう。
これは妻に限らず、「親友」にも同じことが言えるのではないでしょうか。
ギリシャ人著述家のプルタルコス(45年~127年)も、「貧窮の時に友たるは、友の最も大なるものなり」と言葉を残しており、同様の表現は枚挙にいとまがありません。
お金を持ったり社会的地位が上がった途端に、交友関係ががらりと変わることがありますが、そういう時は気を付けなければなりません。
本当に大事にしなければならないのは、自分が文無しの時から、自分を信じて、静かに見守っていてくれる人ではないでしょうか。